2025-06-08 16:30

【吉田豪インタビュー】鈴木茂「売れそうもないと思ってた」はっぴいえんどとの出会い、名盤『BAND WAGON』から50年の音楽人生を語る

鈴木茂
鈴木茂
撮影/宮本賢一
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吉田豪のミュージシャンインタビュー連載に、鈴木茂が登場。ギターを手にしてから約60年、音楽リスナーにとって未だに色褪せないバンド・はっぴいえんどの面々と出会い道が拓けた半世紀以上の音楽人生。ソロに転向してからの名盤『BANDWAGON』発売50周年という記念すべきタイミングで行われたインタビューを抜粋してお届けします。

中学生で大学生と

━━今日は久しぶりのプレッシャーです!

鈴木茂 え、なんでですか?

━━はっぴいえんど(注1)は好きな人が多すぎるから、ボクももちろん好きで聴いてきたけどいままで接点を作らないようにしていたので、まさか取材できるとは思ってませんでした。

鈴木茂 いやいや、よろしくお願いします。

━━まず、自伝(『自伝 鈴木茂のワインディング・ロード はっぴいえんど、BAND WAGONそれから』リットーミュージック、2016年)の「子供の頃からお父さんに『おまえはスペアで作った』と言われてきた」ってエピソードが衝撃的だったんですよ。

鈴木茂 ハハハハ! やっぱりそこ引っ掛かりますか? とにかく僕の親父は冗談の言い方がたまに一般常識から外れることがあるんだけど、とても好きな父親で。それを言われたときも、ニコニコ笑いながらいかにも冗談みたいな感じだったんだけど、さすがに若干のショックがあって。父親は農家の次男坊なんですよ。農家って基本的にそういうところがあって、長男だけ残してあとは好きなように生きてけっていう考え方で。僕が中学生になる前から、「いつまでもここにいるな。仕事して自分でアパート借りて、そこで暮らしなさい」って言われたことがあるんです。だから、僕は小学生の頃に自分なりに就職活動を始めてたんですよ。どういう仕事をするか。それはある意味、親父の英才教育なんですよ。

━━早い段階で背水の陣になれたんですね。

鈴木茂 そうですね。とにかく父親のよかったところは、 好きなことをなんでもやらせてくれたんですよ。長男はボートに乗ったりバーベルやったり、次男は鯉を飼ったり鳩を飼ったり、とにかくそれぞれ好きなことをやらせてくれてたんですけど。

━━ちゃんとお金を出してくれる環境で。

鈴木茂 そうです。それで小学生のときエジソンの伝記にすごく入り込んで、僕も発明家になるんだって思い込んじゃって。まずは硫酸ニッケルの結晶を作ってみたいなと思って、近くの薬局に行ってアルコールランプと石綿金網をワンセット買って、硫酸ニッケルを溶かしてタコ糸たらすと緑色のきれいな結晶がつくんですよ。それをやるためにウチの敷地の、以前洗濯機とかが置いてあった何もない空間に机を置いてカーテン的なものをつけて自分の実験室を作ったの。親父に感謝したのは、親父が一番怖がってたのは火事なんですよ。ウチは自動車の整備工場で、母屋とはちょっと離れてるとはいえ横に部品が山積みの場所があったのにアルコールランプの実験をやらせてくれて。「おまえはスペア」だとかとんでもないこと言うときもあるんだけど、プラスマイナスゼロだと考えればね。それがきっかけで今度はラジオを作るようになったんですよ。それでウチの職人さんがあるとき「茂くんは将来、電気屋さんになるのかな」ってボソッと言ったんですよね。近所の電気屋さんをバカにするつもりはないけど、「うーん……あれが僕の将来の仕事か?」って考えたら、いやちょっと違うぞと思って。そこでたまたま兄がギターを買ってベンチャーズ(注2)の曲をやってたんですよ。そしたら友達の家にもエレキギターがあって、そこで弾かせてもらったら、これは弾けそうだなと思って。そこから音楽の道に入ったの。それが中学1年生の夏休みだったかな。

━━その時点でギターで将来、食べていけるかも、みたいな思いはあったんですか?

鈴木茂 最初はまったく興味本位で。ところが僕はわりと凝り性だから、1回入ると目移りしないタイプなんですよ。弾き始めて半年ぐらいのときにけっこう弾けるようになって、自分でもうまくなったなって感じて。1年経ったときにはイケるかもと思って。わりと決断は早いほうだから、これでいこう、と。

━━当時、ロックで食べるみたいなことって夢物語に近いような時代じゃないですか?

鈴木茂 それで一生食べていけるかどうかは当然わかんないよね。親父も「おまえ、そんなことやるより、この仕事してみたらどうだ?」ってアドバイスくれたのが蕎麦屋だったんですよ。「なんで蕎麦屋なの?」って聞いたら、「一生ずっと食っていくには蕎麦屋っていうのは倒産とか失敗が少ない職業だ」と。だけどやっぱり子供で夢は大きいから、お蕎麦屋さんもいい仕事だと思うけど、とにかくサラリーマンが嫌だっていうのはあったわけ。給料もらって上下関係を気にしながらやる仕事はどうも自分に合わないなと思って、父親にも「どうしても音楽がやりたい」と。そしたら1万円ぐらいするバーニー・ケッセル(注3)の教則本を買ってくれたり。そういう面もあるし、そんな悪い人じゃないの。僕の性格も父親から譲り受けてるところが多いし、的外れな冗談を言うところとか(笑)。

━━鈴木さんそういう人なんですか(笑)。

鈴木茂 うん。だから僕は好きなんですよ。

━━そして中学生にしてギターがうまいヤツがいるって名前を知られるレベルになって。

鈴木茂 そうそう。そのうちに細野晴臣(注4)さんと出会って林立夫(注5)と出会ってということです。

━━当時、周りの人たちはほとんど年上で。

鈴木茂 うん。林は同級生だけど細野さんは年上で。あの頃、1年の違いがけっこう大きかったけれども、それ以上にお互いの技術に注目してるから、年齢関係なく自分にとってこの人は離さないほうがいいなと思った場合はコミュニケーション取ってつき合いを続けるから、そういう形でおつき合いしてました。

━━細野さんとの出会いは大きいですよね。

鈴木茂 大きかったですね。でもその前に、近所でうまいヤツがいるぞって評判になって、最初に僕の家に来てくれたのが柳田ヒロ(注6)さんだったの。だから僕にとって最初の恩人は柳田ヒロさんなんですよ。柳田ヒロさんのお兄さんが大学生だったときPEEPっていう名前の組織を作って、ちゃんと1000人クラスの会場を借りてアマチュアバンドばかり集めてライブをやってたの。そこに僕は地元のCIAというバンドでオーディションを受けて、「じゃあ君たちも仲間に入って」って。

━━大学生の組織に中学生で出入りしてた。

鈴木茂 そうそう(笑)。細野さんは立教大学のバンドでいて、林くんはムーヴァーズっていう青学の同級生で作ったバンドで。それで1年か2年ぐらいやってて、そしたら細野さんも林もバンド解散して、僕もそろそろ高校を卒業する2年、3年くらいの頃、みんなバンド解散してるんだったら一緒にやろうって細野さんと林と僕と3人で集まって、仕事といってもダンスパーティーとかそういうのが多かったんですけどね、それでやり始めて。

━━そしたら細野さんが5万円の給料でエイプリル・フール(注7)に引き抜かれちゃうんですね。

鈴木茂 そうそう。でもおもしろかったね、細野さんが仕事を受けたときに電話かかってきて、いくらって言われたかわからないけど、「それじゃ高すぎます!」みたいな(笑)。

━━ちょっとわからないんですけど、その頃は毎月5万の給料でもデカかったんですか?

鈴木茂 いわゆるふつうの勤め人の初任給と同じか上回るぐらい。だからなびくよね、そりゃ。毎月もらえるわけだから。音楽なんて不安定な仕事だから、仕事があればお金は入るけど、なきゃぜんぜん入らない世界なんで、それはなびいて移っても当然の話だと思ってますけどね。それで細野さんがいなくなってどうしようかって林と話して、小原礼(注8)を入れてスカイ(注9)ってバンドを作るって流れですね。

鈴木茂
鈴木茂
撮影/宮本賢一

謎かけ、お茶&まんじゅう

━━そしたら今度は、いよいよ鈴木さんがはっぴいえんどに誘われるわけですよね。

鈴木茂 細野さんはエイプリル・フールでやってたんだけど、(小坂)忠(注10)さんが『HAIR』(注11)っていう演劇に行っちゃったもんで、そのときたまたま僕たちの近くに大瀧詠一(注12)さんがいて、細野さんと松本(隆、注13)さんと大瀧さんと3人で作曲活動はしてたの。ある程度、曲もできてきて、バンドとして活動しようっていうときにリードギターが欲しいなっていうことで僕に連絡してくれて。「ギター持ってきてくれ」って言われて、松本さんの部屋に行って。大瀧さんはいなかったんだけど、細野さんが生ギターで『12月の雨の日』を弾いて、僕がイントロのフレーズを弾いて。それを気に入ってもらってという流れです。

━━その当時、鈴木さんは17歳だったわけですよね。すさまじい話だと思いますよ。

鈴木茂 ハハハハ! そうですね(笑)。僕の場合とてもラッキーで、人との出会いが。

━━ラッキーでもありプレッシャーでもあり、みたいな感じではなかったんですか?

鈴木茂 いや、プレッシャーはなかった。自分のギターの技術に対してある程度の自信があったから、べつにここでうまくいかなくても他のとこ行けばいいって気持ちだったから。ただみんな酒が飲めないの、3人とも。僕もまだ未成年だから酒うんぬんはないんだけど、ちょっとジジくさいところがあって、大瀧さんは落語が好きだったり、いままで一緒にやってた人間とあまりにも違う世界だから。

━━もうちょっとロックな世界だったから。

鈴木茂 うん。だから逆におもしろかった、新鮮ではあったね。落語と謎かけとお茶とおまんじゅうと(笑)。あれは楽しかった。

━━謎かけも一緒にやってたんですね。

鈴木茂 やってた。慣れていくうちに楽屋でもバカ言って酒飲んでるようなバンドを下に見るようになって(笑)。「なんだあいつら、レベル低いなあ」みたいな。だから自分もちょっとエリート意識を味わえるようになってきたというか。ものごとの見極め方とか深め方とかがちょっと違うんだよね、松本さんも大瀧さんも細野さんも。これはちょっとおもしろいバンドに入っちゃったと思い始めて。

━━みなさん音楽的な素養もすごければ文化的な素養もすごい人たちだったというか。

鈴木茂 音楽だけにこだわってないんだよね。

━━そこに気後れするでもなく、ふつうに年下という立場で馴染んでいったんですね。

鈴木茂 そうそう、甘えながらいいところは吸収してっていう世渡り上手的な形でついていって。それで『ゆでめん』(注14)のレコーディングに入ったんだけど、まだ僕は曲も作ってなかったからギターしか弾いてなくて。『ゆでめん』が出来上がって本格的に学園祭だとか、当時、日本語のロックとフォークとかいくつかの出演者を集めた、いまでいうフェスティバル的なところに行ったり来たりしてたんです。1年ぐらいして次の『風街ろまん』(注15)を作るんだけど、そのときたしか大瀧さんが「茂も曲を作ってみたら?」って言ってくれて、それで作るようになって。そういうところ温かいよね、導き方が。とっても僕のことを考えてくれるなってうれしい気持になった。

━━はっぴいえんどに入ったとき、このバンドで売れるぞって思いはあったんですか?

鈴木茂 いや思ってなかった。売れそうもないと思ってた(笑)。ただ、これは何十年も残るなと思ってたし、これは何年か後に消えちゃうような音楽じゃないっていうのはわかってた。だから、いまの状況は最初から予測してたね。

━━このレベルで評価され続けることも。

鈴木茂 だって周りにいなかったから。客観的に見て、このレベルのバンドはひとつもないと思ってた。当時グループサウンズがあってフォークがあって、ちょうどロックが生まれそうになってた時期で。グループサウンズは職業作家の曲をシングルカットしたりしてて、かなり歌謡曲寄りだったの。フォークはむしろオリジナル曲がすごくあって、だけど僕たちはフォークというよりもロックにしたい、と。それで僕が呼ばれたんですよ。

━━ああ、ロック色を出すために。

鈴木茂 そうそう。だからその世界でははっぴいえんどが先駆者だっていうのはそのときから気づいてたから。しかも作ってる内容が、いわゆる流行歌というかヒットを意識してるものではなくて、自分たちがこれを作りたいんだっていうものを作ってるって感じられてたしね。そういう会話は特にしてないんだけど、お互いにそれは思ってたんですよ。だからこれは絶対に残ると思ってやってました。

━━実際、残りましたけど、当時もう少し評価されたいって思いはなかったんですか?

鈴木茂 当時、キャロル(注16)がすごい売れてたからね。でも、これが自分たちの進む道だなってことで、特に焦ったり僻んだり、そういった感じはなかったです。これが自分たちの進むべき道だ、と。だから一般のミーハーのお客さんを相手にしてるんじゃなくて、僕たちは音楽好きなクオリティの高い人とか同業者を相手に活動してるんだって意識があった。

━━なるほど。当時、日本語ロック論争(注17)とかもあったわけじゃないですか。あれって鈴木さんはどういうふうに見てたんですか?

鈴木茂 最初はやっぱり英語のほうがノリやすいと思った。だけど最初に『花いちもんめ』とか松本さんの詞をもらって作って実際にやるとおもしろいんですよね。英語で歌わなくても自分のやりたい音楽は作れるし、むしろストレートにやれるから、辞書を見ないとよくわからない言葉で発音も自信ないような感じでやるよりも、日本語でやったほうがいいんじゃないかって。だから畳の部屋のロック的な、むしろ世界じゅうどこにもないからこれはいいんじゃないかと思い始めて、英語で歌うという気持ちはなくなって。カヴァーで人の曲は歌うけどね。でも、自分の曲を英語で作るという意識は最初からなくなってしまった。

取材・文/吉田豪

大ボリュームのインタビューの続きはこちらから

吉田豪(写真左)と鈴木茂(写真右)
吉田豪(写真左)と鈴木茂(写真右)
撮影/宮本賢一

鈴木茂プロフィール

1951年生まれ。東京都出身。 69年にはっぴいえんどに加入。3枚のアルバムを残し解散。その後、74年に単身ロサンゼルスへ渡り、1stソロアルバム『BAND WAGON』を完成させ、75年にリリース。鈴木茂&ハックルバックやティン・パン・アレー、スカイなどのバンド活動、アレンジャーやプロデューサー、ライブサポートなどでも活躍。 3月25日に『BAND WAGON』50周年を記念した最新リマスター版アナログレコード、カセットテープをリリース。

記事注釈

(注1)はっぴいえんど…細野晴臣・大瀧詠一・松本隆・鈴木茂の4人によって結成。69年結成のヴァレンタイン・ブルーから70年に改名。72年末に解散。

(注2)ベンチャーズ…58年に結成されたアメリカのインストゥルメンタル・ロックバンド。日本に空前のエレキ・ブームをもたらした。

(注3)バーニー・ケッセル…23年生まれのアメリカのジャズ・ギタリスト。04年に死去。

(注4)細野晴臣…47年生まれ。エイプリル・フールやはっぴいえんどを経て、73年にソロアルバム『HOSONO HOUSE』をリリース。78年にはYMOを結成。

(注5)林立夫…51年生まれ。ドラマーとしてスカイや小坂忠とフォー・ジョー・ハーフでの活動ののち、ティン・パン・アレーに加入。

(注6)柳田ヒロ…49年生まれのキーボーディスト。エイプリル・フールの前身であるザ・フローラルを小坂忠らとともに66年結成。

(注7)エイプリル・フール…69年、ザ・フローラルに細野と松本が加入する形で結成。同年9月のアルバム『APRYL FOOL』リリースとほぼ同時期に解散。

(注8)小原礼…51年生まれのベーシスト。スカイを経て、71年に加藤和彦の誘いによりサディステック・ミカ・バンドに参加。97年に尾崎亜美と結婚。

(注9)スカイ…SKYE。68年に鈴木・小原・林の3人が高校時代に結成されたアマチュアバンド。鈴木のはっぴいえんど加入により自然消滅するが、19年に再集合し、松任谷正隆が加入。21年に1stアルバム『SKYE』、24年に2nd『Collage』をリリース。

(注10)小坂忠…48年生まれ。ザ・フローラル→エイプリル・フールを経て、71年にソロアルバム『ありがとう』をリリース。鈴木とはユニット「茂 忠」としても楽曲をリリース。22年に死去。

(注11)『HAIR』…ベトナム戦争に嫌気がさしていた若者たちの、カウンターカルチャーの世界を再現した舞台。YMOなどのプロデューサーである川添象郎がブロードウェイから日本に持ち込んだ。

(注12)大瀧詠一…48年生まれ。小学校時代からアメリカンポップスに傾倒し、高校時代に初めてバンドを結成。就職を経て大学入学後に細野と知り合う。はっぴいえんどでの活動と並行しソロ作『大瀧詠一』をリリース。74年にナイアガラ・レーベルを設立。13年末に死去。

(注13)松本隆…49年生まれ。はっぴいえんどではドラムと作詞を担当。解散後は「オリジナル」のムーンライダース(「ス」は当時の表記)を結成。作詞家兼プロデューサー業も開始し、『木綿のハンカチーフ』をはじめ数知れないヒット作に関わる。

(注14)『ゆでめん』…70年8月5日リリースの1stアルバム。『ゆでめん』はジャケットに描かれた看板にちなんだ通称で、正式には『はっぴいえんど』。

(注15)『風街ろまん』…71年11月20日リリースの2ndアルバム。ジャケットは白をバックにメンバー4人の顔が配置されている。代表曲『風をあつめて』を収録。

(注16)キャロル…72年に矢沢永吉を中心に結成。ジョニー大倉の手掛ける歌詞と矢沢の作曲で日本語ロックを確立。75年に解散。

(注17)日本語ロック論争…日本のロックを日本語で歌うべきか、英語で歌うべきかという論争。日本語はロックのメロディーに乗らないという「英語派」と、「日本語派」の間には明確な温度差があり、『風街ろまん』の高評価などで一応の収束を見せた。

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